お電話でのお問合せはこちら
TEL:03-3443-4011

かんとこうブログ

2024.07.24

松本十九氏について・・「組合の概要」にも掲載しました

 松本十九氏と言えば、関東塗料工業組合の創設メンバーで組合創設の中心的役割を果たし、初代理事長となった方として有名です。また組合に対する功労者や優れた業務改善提案に送られる松本賞が設けられたのも松本氏の遺志と寄付が端緒となっています。この松本十九氏は、実は非常に優れた塗料技術者でした。その詳細は自伝「この道一筋」に記されていますが、大書であり読むには相当な時間を要するため、なかなか世に知られていないのが実情です。
 この度、先般日本化工塗料株式会社を退職された塩田淳氏が、松本十九氏の塗料技術者の側面に光を当てて氏の業績を簡潔にまとめてくれました。以下に塩田氏の原稿を紹介させていただきたいと思います。
   
塗料業界の大先輩であり、
塗料ケミストの先駆者である松本十九(とく)という人
   
≪はじめに≫
日本化工塗料OBの塩田淳と申します。
2023年7月5日のかんとうこうブログ「松本十九氏と『この道ひとすじ』・・松本賞のルーツ」( https://kantoko.com/blog/2023/07/90390/ )で、松本十九氏の自伝「この道ひとすじ」1)のことを知り、拝読しました。そのかんとこうブログから一年余りも経っておりますので、大変遅ればせながらではありますが、日本塗料工業会初代委員長~関東塗料工業組合初代理事長等の要職歴任の塗料業界の大先輩であり、日本化工塗料の大先輩でもある松本十九氏について、日本化工塗料の社史「波濤を越えて」2)に記されていることに加え、「この道ひとすじ」で新たに知りえた「松本十九(とく)という人」の人物史、功績、そして人となりを是非とも紹介したいと思い、本コラムを書き綴るに至った次第です。
   
実は、日本化工塗料ホームページ掲載の高機能性塗料コラムにおいて、その技術的コラムの合間のコーヒーブレイク的なコラムとして、日本化工塗料の歴史においての“特記すべき技術者”として、日本の塗料業界の発展にも大きく貢献された松本十九氏を含む3名の大先輩諸氏のうち、下記のとおり、まず最初に、日本国特許第一号を取得した堀田瑞松(ずいしょう)氏、次にその息子さんである堀田賢三氏を、その功績も含めて紹介しておりますが・・・
   
〇堀田瑞松氏の紹介コラム(2018.8.16)
「日本の特許第一号は『塗料』なんです」

〇堀田賢三氏の紹介コラム(2019.8.19)
「カニ缶の内面にはオレオレジナスという塗料が使われていたんです」
   
   
もう一人の松本十九氏の紹介もしたいと、かねてより思っておりました。私の生来の筆不精ゆえ、今になってしまいましたが、松本十九氏の紹介コラムをかんとうこうブログへの掲載により、日本化工塗料の3名の“特記すべき技術者”の紹介コラムの三部作としても、完結させていただきたく思います。
   
   
≪松本十九氏の学術上の功績≫
 まずは、松本十九氏の学術上の功績について、紹介するべきでしょう。上記の「日本化工塗料の歴史上の特記すべき技術者」でも記述していますように、松本十九氏の日本化工塗料時代、経営者であるとともに(経営者ゆえの様々な苦悩も抱えられながら)、技術者としての活動にも心血を注がれました。その大きな功績が昭和14年(1939年)初版の塗料辞典(尚賢堂・修教社書院出版の当時「塗料辭典」)と昭和17年(1942年)初版の塗料便覧(修教社)の単独執筆による出版です。特に塗料便覧は、1850ページの大冊であり、その後の太平洋戦争の戦局の悪化につれ、内外の技術書が入手難になっていくなかで、“塗料のバイブル”とまでいわれました。
   
   
また、技術報文の執筆活動にも注力されました。塗料・印刷インキ・顔料等の学術団体である色材協会(当初は、顔料・塗料・印刷インキ協会)には、若いころから関わられ、多くの報文の執筆・寄稿をされています。また、昭和25年から昭和28年の4年間は、会長も務められました。後の色材協会「色材協会三十年の思い出」4)のなかで、「協会の語らい 編集委員会に出席したことは、私が塗料辞典や塗料便覧を執筆する動機となった」と、回想されています。
    
  
さらに、産学関係の功績の一例として、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の塗装教室の開設にも関わられました。 松本十九氏曰く「塗料業界にとって地味な成果と言えないこともないので」とのこと。このようなことも芸術をも含む学術上の功績として、触れておきます。
  
   
≪「この道ひとすじ」の概要 ~松本十九氏の生い立ち~塗料業界活動での功績~≫
さて、「この道ひとすじ」の内容は、松本十九氏の自伝であり、その生い立ちから、小学校~中学校~高校~大学(東京帝国大学理学部化学科)の学生時代、社会人となっての日本化学工業株式会社~奥田塗料製造所~日本化工塗料株式会社(入社時は日本化工ペンキ)~自ら設立した太洋塗料株式会社時代のこと、そして、日本化工塗料と太洋塗料の在籍時の塗料業界活動としての日本塗料工業会、関東塗料工業組合でのさまざまな出来事が全215ページの20万余字によって記されています。特に塗料業界活動に関しては、昭和41年ごろまでの塗料業界そのものの産業史であることは、かんとこうブログでも紹介されているとおりであり、この時代の塗料を取り巻く業界の“うねり”を感じることが出来る長編の歴史書でもあります。業界の動きを記す章のなかには、「企業整備」、「法益の侵害」、「黒い霧」などの生々しいタイトルの内容もあり、また全体としても、あまりにもダイナミックな業界の動きを記す長編であるゆえ、残念ながら、私にはそれらの内容を上手く紹介する器量はないものと観念し、本コラムでは、以下、最初の「生い立ち」と、塗料業界活動としての日本塗料工業会と関東塗料工業組合での功績について、紹介することとします。
   
まず、「生い立ち」についてですが、松本十九氏は、明治37年(1904年)4月16日、広島県福山市に戸田房太郎、キクの三男(兄二人、姉二人の五番目の末っ子)として出生。明治42年の6歳の時、母の生家の実兄、松本義玄の養子となり、松本の姓に改姓されました。私は、「松本十九」という名前を(文字として)知った時、最初に「十九」を「なんと読むのだろう」と思い、また「とく」であることを知った後も「十九(とく)」の由来を知りたいと思ったものでした。その答えが「生い立ち」の章にあり、下記のとおりです。
    
長兄の名前が一二、次兄が三四、長姉が五六と数字の一から始まった名前だったので、(次姉は七八であられ)
私の順位は九十になるのである。これを逆にして十九としたのは父が『逆もまた真なり』という幾何学の定理を
知っていたからではない・・・
    
その当時、五人の兄弟姉妹は決して多かったわけではないでしょうが、要は、お父様がそれ以上のお子さんを望まれなかった、即ち「(例えば)十一十二」と命名することになるであろう十九氏の弟さんもしくは妹さんを望まれなかった・・・との所以であったようです。
   
当時「十九」という名前は、女の子に使うことが多い名前であったようで、「幼少期から少年期にかけて随分肩身の狭い思いもしたものである。」ではありますが、「しかし成長してみると類の少ない名前で、簡潔ではあるし字音の響きも悪くないのでだんだん愛着を感じるようになった」と追憶されています。お名前に愛着を感じられるようになり、自信を持って行動されたからこそ、その後の人生においてのまさに名実一体のご活躍に繋がったのでしょう。
   
そして、上記の「日本化工塗料の歴史上の特記すべき技術者」でも記述していますように、松本十九氏の業界活動としての功績は、昭和23年(1948年)の日本塗料工業会発足時の初代委員長就任、昭和40年(1965年)の関東塗料工業組合のこれも初代の理事長就任による長きにわたる塗料業界を盛り上げるための活動成果です。日本塗料工業会の初代委員長へは、もちろん力量を買われ、乞われての就任でありましたが、関東塗料工業組合は、当時の中小塗料会社の存亡の危機感から、競争力を高め、体質強化のための関東地区の中小塗料会社の大同団結に向けての松本十九氏の強い設立意思によるものです。よって、初代理事長就任は、必然のことでありました。この関東塗料工業組合の設立に関しては、「この道ひとすじ」の付録ページに、「関東塗料工業組合が生まれるまで」として、より詳細に書き綴られています。
   
現在、関東塗料工業組合では、組合の発展に功労のあった方々および組合員企業における業務改善に功績のあった従業員・サークルなどを表彰する“松本賞”という表彰制度があります。この“松本賞”とは、松本十九氏からの組合の発展を願っての多額の寄付金を元にするもので、この寄付金を有効に使うため、松本賞基金財団(任意団体)を設けて、資金の管理と表彰を行っているものです。ちなみに、業務改善活動の功績に対する“松本賞”表彰の最近の実例としては、手前味噌ではありますが、日本化工塗料からの応募5件も含む業務改善提案で、このことは、日本化工塗料の2023.7.4のコラム「松本賞を受賞しました!(https://www.nippon-kako.co.jp/column/C-2.html )」で紹介しています。
    
また、この表彰に関し、かんとうこうブログにおいて、
「日本化工塗料株式会社は、かつて松本氏が長期間勤務され経営者の一人として大活躍をされた会社だったのです。
時を経た今、かつて氏が心血を注いだ会社の後輩達が氏の名前を冠した賞を受けるのも少なからぬ縁を感じます。」
との紹介をしていただきましたこと、関東塗料工業組合(事務局)に有難く感謝し、御礼申し上げます。
      
≪さいごに≫
 松本十九氏の功績の内、塗料辞典・塗料便覧や各種技術報文の執筆などの昭和の初期からの時代での学術上の功績が大きいと思いましたゆえ、本コラムのタイトルに、「塗料ケミストの先駆者」という言葉をいれさせていただきました。これに対し、「○○○○氏もおられるのでは」とのご意見・ご指摘もあるかもしれませんが、本コラムは、松本十九氏をフォーカスしたものとのご理解にて、ご容赦をお願いいたします。
なお、執筆活動において、とにかく筆まめであられましたが、「この道ひとすじ」の中でも、「どんなに忙しくても、夜遅くても、毎日 最低1枚の原稿を書くことにしている」との記述が何度かでてきます。このコラムを書き上げるだけでも、四苦八苦している私にとっては、頭が下がる思いです。
 個社の会社運営や塗料業界活動において、大きな圧力や、場合によっては、理不尽ともいえる反対勢力がいる状況においても、松本十九氏は一貫して、「熱意」「誠意」「創意」(即ち、三つの「意」)の人であられました。「この道ひとすじ」の中で、私が感銘を受けたのは、自らが立ち上げた太洋塗料株式会社の「設立総会」という章での下記の文章であり、それを最後に紹介したいと思います。
誹謗中傷は小人の常であり、毀損褒貶(きよほうへん)もまた世人の常である。海のものとも、山のものとも判ら
ない私の会社に、危険も顧みないで敢えて出資して下さった株主のご厚意と勇気ある親切を思えば、人の噂など
馬耳東風、問題ではなくなり、石にかじりついても皆さんのご援助に応えて、会社の発展を期せねばならないと
決意を新たにしたものであった。
強い人でした。
   
<参考資料>
1)松本十九「この道ひとすじ」関東塗料工業組合、平成13年(2001)1月16日発行(日進印刷㈱)
2)日本化工塗料株式会社「社史 波濤を越えて」、平成 5年(1993)3月31日発行(㈱小西印刷所)
3)色材協会「色材協会70年のあゆみ」、 色材協会誌、平成 9年(1997)9月
4)松本十九「色材協会(30年)の思い出」、色材協会誌、昭和32年(1957)9月
5)松本十九「顔料の防錆効果に就いて」、色材協会誌、昭和13年(1938)12巻1号、p.2-14
   

コメント

コメントフォーム

To top